教内では、「教会の子がなかなか学院に行かない」「若い教師が減った」という話がよく聞かれるが、神様の願いとされていることはどういうことなのだろうか。
昨暮、東京都教会連合会で、「桂かい枝の独演会」を企画し、新宿安田生命ホールで満席の盛況を得た。かい枝さんは、金光教阪急塚口教会の次男として生まれ、大学を卒業後、上方落語四天王の一人と言われた桂文枝師匠に入門する。このとき、教会長である父親に、お取次を頂き、「笑いで人を助けなさい」と言われている。この独演会の中でも、「桂かい枝の信心噺」と題して、自身の信心体験を語った。大学受験に失敗し浪人したとき四代金光様に「列車に乗り遅れたら次の列車に乗ればいいんじゃ」とお言葉を頂いたことなど、誰しもが共感でき、わかりやすく、心癒される信心噺だった。
私の弟も現在、武蔵野市議会の副議長のお役を頂き、活躍している。
二人とも教会の次男だが、それぞれの道に進み、金光教の教師ではないが「人を助ける」お役に立っている。
「人のことをそしる者がある。神道はどう、仏教はこうなどとそしったりする。自分が産んだ子供の中で、一人は僧侶になり、一人は神父になり、一人は神主になり、また、役人になり、職人になり、商人になりというようになった時、親はその子供の中でだれがそしられて、うれしいと思うだろうか。他人をそしるのは、神の心にかなわない。釈迦もキリストもどの宗祖も、みな神のいとし子である」(『天地は語る』54)
神様は、いとし子が、「人を助ける働きを担ってほしい」と願っておられるはずである。それが必ずしも金光教教師の肩書きを持たなければならないというような狭い視野ではないと私は思う。
翻って、果たして自分自身が人を助ける働きができているか、自省をさせられる今月今日である。