佐藤達蔵さんは、大正五年四月十七日に、東京市麻布区新龍土町(現六本木)に牛乳店を営む佐藤石太郎・ひょう夫妻の五人兄弟の長男として生れ、ハーレーダビットソンを扱う隣のオートバイ屋に憧れ、新宿の自転車店に弟子奉公後、岡村自動車に勤務。昭和十六年二十六歳の時、兵役に召集され、戦地で戦うこと五年。自動車部隊として中国を転戦し、戦後はシベリアに抑留され昭和二十一年六月復員しました。戦災で荒れ果て我が家も焼き出され、妹は稲田家へ嫁いでいたことを知り、まじめで仕事いちずな自動車修理の技術と戦友のさそいもあり、住まいを墨田区立川に移し佐藤自動車工場を開業。妻静子さんを迎え、長男、長女を授かりました。子どもが赤子の頃夕立が降ると体の弱かった妻を気遣い仕事を中断して迎えに来るなど優しい父親でした。しかし、昭和四十六年に奥様が他界。どん底に突き落とされた頃、幼い頃に父と参った金光教麻布教会に参り、九十歳の初代教会長松本儀助大人から「これから先は人生をやり直しなさい。私を見よ。今からでも遅くはない」というお言葉を頂き、乙島教会長岩本寅雄師に案内され、岡山県金光教本部に参拝。その後、数々の試練を受けながらも次々におかげを蒙り、「疑いを放して広い真の大道を知れよ。わが身は神徳の中に生かされてあり。天に任せよ地にすがれよ」の教えを胸に、毎朝のご祈念に車で麻布教会に参拝。昭和五十九年から六十一年の教会移転新築の時にも、二代教会長を支えて、土地探し、建築にも貢献し、温厚、誠実、素直で心やさしい人柄は「佐藤さん。達蔵さん」と皆に慕われ麻布教会信徒総代、責任役員のお役も担われました。八十歳を過ぎるまで日参を続けましたが、腎臓を患い、透析治療に通い、治療の日には必ず電話でお届け御礼を欠かさず、最後まで実意丁寧な信心を貫きました。五月十四日午前四時六分、遂に肺炎にて九十三歳で眠るように静かに逝去され、葬儀は五月十五、十六日麻布教会で行われました。